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賠償を要求

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賠償を要求

一九四五年二月、スターリンはクリミア半島のヤルタでローズヴェルト米大統領およびチャーチル英首相と会談し、ドイツの降伏から二、三ヵ月後にソ連が太平洋戦争に参戦すると確約した。れはすなわちソ連軍が中国に侵攻するということで、毛沢東にとってはいよいよ中国を自分のもにするチャンスが巡ってきたわけである。すでに一九二三年の時点で、毛沢東はいみじくも、共主義は「北方からソ連軍によって中国にもたらされなくてはならない」と予言していた。

三二後、その予言は現実になろうとしていた。スターリンが対日戦争に駆け込み参戦することについて、ローズヴェルトもチャーチルも異議はなく、むしろソ連の参戦を望んでいた。当時、アメリカはまだ原子爆弾の実験を終えておらず、連が参戦すれば日本の降伏が早まって連合軍の犠牲も少なくてすむだろう、という空気が支配的った。参戦するからには「見返り」が必要だというスターリンの要求を、ローズヴェルトもチャチルも容認した。二人とも、スターリンに参戦を決断させるのにニンジンをぶら下げる必要ない、ということに気づいていなかったらしい。ヤルタ会談では、外モンゴルにおける「現状」(実質的にスターリンに外モンゴルの継続支配を認める)だけでなく、時代を数十年さかのぼっ帝政ロシアが中国国内に有していた利権の復活まで認められた。

その中には、中東鉄道や大連と旅一シLにおける治外法権などが含まれていた。☆ヤルタ宣言にはこれらの条項は日本のロシアに対する賠償として書かれているが、現実にはこらの利権は中国からの搾取である。チャーチルは、「ソ連が中国の負担において賠償を要求するならば、香港にする我が国の決定にも有利に働く」という観点からこれを歓迎した。話し合いが中国領土に関する内容であったもかかわらず、中国国民政府はこの件について何も知らされず、事前の相談もなかった。アメリカは、スターンの許可が出るのを待って合意内容を蒋介石に伝えることを約束してスターリンに振り回され、しかもそのあと介石から承諾を取り付ける交渉役を引き受けて、ますます自分の首を絞める愚を犯した。結局、蒋介石がアメリからヤルタ会談の合意内容について通告を受けたのは、会談から四ヵ月以上も経過した六月一五日であった。こは同盟の相手国をあまりに軽視した扱いであり、後日に禍根を残した。
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