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見られたくないという事情

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見られたくないという事情

ケシの栽培も、この時点で中止された。アメリカ人に見られたくないという事情もあったが、そもそも生産過剰になっていたのだ。実際、余剰の阿片は頭痛の種だった。強硬論者の中には延安民衆に二束三文で売ってしまえと主張する者もいたが、毛沢東はこれを認めなかった。阿片中毒農民では役に立たないからだ。しかし、ケシの栽培にたずさわるうちに阿片中毒になってしまっ農民もいた。政府は地元住民に阿片吸引の習慣を捨てるよう厳重な期限つきで命令を出し、「薬与えて中毒患者の治療を支援する」、「貧しい者」は治療代を支払う必要がない(もちろん少しも支払える者は支払わなくてはいけない)、と呼びかけた。

事情を知る指導部に対しては、毛沢東はケシ栽培は党の「二つの誤り」のひとつであったと認めたものの、その舌の根も乾かないうちにこれを正当化している。 一九四五年一月一五日、毛は、党の誤りのひとつは「長征のあいだにわれわれが民衆からものを取ったことである」と発言る一方で、すぐに、「だが、そうしなければ、われわれは生き延びることができなかった」とた。「もうひとつの誤りは、某物﹇あるもの、すなわち阿片﹈の栽培である――しかし、そうしなければ、われわれは危機を乗りきることができなかった」毛沢東が中国全体を征服したあとも、延安の極貧状態は変わらなかった。 一九五四年にこの地にやってきた共産主義ハンガリー(この国自体、けっして裕福ではない)からの訪問者は、延安郊の村々が「信じがたいほどみすぼらしく貧困にあえいでいる」とコメントした。実際、革命根地はすべて、解放後も中国の最貧地域から脱することができなかった。理由は、まさにそれらが命根拠地だったからである。スウェーデン人の熱狂的共産主義者と毛沢東が一九六二年に交わし会話が残っている。
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