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作物の前売り

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作物の前売り

インフレの程度を実感できるのが、嫁をもらうにあたって支払う結納の額だ。 一九二九年には花嫁の値段は六四元だった。 一九四二年には、七歳の女児で七〇〇元、成人女性で一三〇〇元未亡人で三〇〇〇元に値上がりした。 一九四四年には、未亡人の値段は一五〇万元になった。ばつこ高利貸が跛屋し、利率は、謝覚哉の記録によると、平均で月に三〇ないし五〇パーセントだった。謝秘書長はまた、市の日から次の市の日まで(五日間)で一五ないし二〇パーセントという方もない高利があったことも記録に残している。これらの利率は、共産党支配以前の最高利率とわらなかった。現金を手に入れるために、多くの農民は作物を前売りした。前売り価格は収穫時たった五パーセント、という例もあった。


「利率の引き下げ」は、当時の共産党政府の二大経済公約のひとつだった。もうひとつの公約は、土地賃貸料の引き下げだった。土地賃貸料については具体的な規制があったものの(収穫物を差出す相手が地主から国に変わっただけで、規制自体が無意味だったが)、貸付利率については政は何も制限を設けず、7…。調整は民間に任せるべきである、融資が枯渇しないよう政府は利率低く設定しすぎないこと」という声明を出しただけだった。政府は何の融資も提供しなかったら、金を借りたい人間は民間に頼るしかなかった。利率に限度を設けた革命根拠地もあったが、安政府は民衆のあいだで最も強欲な高利貸が最も無力な農民を食いものにする構造を放置した。

一九四四年二月、政府は際限のない紙幣発行を中止し、辺幣を回収しはじめた。こうした方針転換を促したのは、ひとつには、五年ぶりにソ連人以外の外国人――アメリカ人宣教師やジャーリストーーが延安にやってくる、という事情だった。革命根拠地が超インフレではみっともないというわけだ。しかし、借金に苦しむ人々にとってはデフレも恩恵とは言えなかった。謝秘書長四月二二日の日記に、「通貨の価値が下がろうと上がろうと、苦しむのはいつも貧しい人々だ…物価が高い時期に背負った借金を返すために、彼らはこんどは余計に財産を処分しなければない。多くの者が役畜を売ろうとしていると聞いた」と書いている。
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