地元住民にとって、阿片は天文学的なインフレをもたらす原因ともなった。国民党支配地域よりはるかにひどいインフレだった。「われわれは重大なインフレーションを起こした。これはわれれが貧しいからではなく、金持ちだから起こったインフレである」と、謝覚哉が一九四四年二月六日の日記に書いている。
このインフレの主要な責任は、毛沢東にある。 一九四一年六月、毛沢東はこの地域で流通してた共産党通貨の辺幣を無制限に発行するよう独断で命令を出した。最初の計画では通貨発行量の上限が決められていたのだが、毛沢東は予算案を見て、「辺幣を一〇〇〇万元以内に制限しなけばならないという考えにとらわれてはいけない……手足を縛ってはいけない」と発言した。毛沢は政府や軍に「惜しまず」金を使うよう指示し、「将来に﹇制度が﹈崩壊するというなら、崩壊させればよい」と言って、地元経済にはまったく配慮を示さなかった。謝覚哉によると、 一九四年には塩の価格が一九二七年の二一三一倍になった。食用油は三二五〇倍、綿布は六七五〇倍、布は一万一二五〇倍、マッチは二万五〇〇〇倍になった。
このような超インフレーションが起こっても、政府からの配給で生活している者たちには打撃はなかった。大多数の人間よりも全体をよく俯敗できる立場にあったソ連大使パニュシュキンは、インフレで打撃を受けたのは苦役を強いられている者すなわち農民であった、と述べている。は、衣類、塩、マッチ、家庭用品、農具などの必需品――あるいは医療費――を現金で支払わなればならなかった。医療は国家公務員を除いてつねに有料だった。それも、医療が受けられるとての話である。ある革命根拠地の病院職員は、「われわれは小麦がほしいときだけ老百姓(人々)の診療を受け付けていた」と話している。